2013年04月04日

再びの竜~胎動~

竜とて、食らう。動物である以上は違う種の命と肉を食らって血肉としなければ満足に生存できない生物に共通の事情を持つ。竜は森の動物を襲うばかりでなく、不用意に近づいてきた人間を殺してその肉を食らうこともたびたびあった。
とはいえ一日に三度も四度も飯が必要な人間とは違って竜の身体は特殊だから、腹が減って動けないなんてことはまずなくて、一ヶ月に一度くらいきちんと栄養を取ればそれで足りる程度だった。元より何十万年という他の生物にはありえない寿命を持つ竜のことだから、食事と食事の間隔が長いのも無理からぬことだ。
竜には、そうした長寿命を支えるだけの身体の仕組みが備わっていた。血気盛んで時々その体躯以上の破壊力で暴れることもある竜の力の源は、極度に活性化されて煮え滾るように熱くなったどす黒い血の循環にある。その血の活性化を行う臓器が竜に独特のもので、例え竜の心臓を抉り出したとしてもこちらが残っていれば最初は心臓の代役となりながら本物の心臓を再生し、やがては本来の機能を取り戻して完全復活するのだと言われている。
その竜の血を活性化させる臓器とは、五臓六腑で言うところの「脾」ではないかと考えられる。心、肺、肝、腎、と並ぶ五臓の一つに数えられながら人間の脾臓では役割が軽すぎるため謎とされてきた、その「脾」なる臓器。実は竜の体内にあって竜を活性化させる臓器と考えれば辻褄も合うし、中国思想の五臓が完璧に備わった竜が長生きできる理由も納得がいく。
だが竜は、自分の身体についての詳しい知見は持ち合わせていなかった。竜が分かるのは、口から食らった消化されない植物の繊維や金属質を固めることでできた竜の鱗が体表を覆って守る体内には大切なものがしまわれていて、その大切なものを奪われてしまえばいくら長寿の竜といっても肉体が崩壊するかもしれない、ということだ。
自らの肉体が崩壊してしまってはいくら不死でも何も意味がないから、それは竜にとって事実上の死といって差し支えないだろう。竜はその肉体の崩壊を、自分の子孫を残せないことと同等に恐れていた。
確実に自分が生き残っていくためには、食べることが不可欠だった。ほとんどは縄張りを離れた森の動物や何らかの理由で命を落とした生物の遺骸を食らって満足したが、どうしても腹を満たせない時は上空から狙いをつけた人間の集落を急襲して出合わせた人を掻っ攫い、自分の寝床へ運び込んで頭からかぶりつくこともあった。何万年というこれまでの歴史の中で食らった人間の数などいちいち覚えているわけがない。数え切れないほど夥しい数だ。しかし他種の命よりは少ないだろう。固い繊維を編みこんだ服は消化不良を起こしやすいし、「呪」の一環で身体の各所へ施した顔料は肉の味を悪くするし、小賢しい知恵があって奴らは火を用いるから狩りに手間取ると思わぬ痛手を被ることがある。要するにわざわざ人を襲う理由がないから最近は人との接触を避けていた。
それだけに、人間の方からやってきて自ら肉を差し出すなんて思いも寄らない幸運だった。目の前のご馳走を前にして食指が動かないはずがなかった。が、すぐに食いつくことはためらった。新鮮な肉を好む獣は竜だけではないし、落し物の肉となればどのような罠が待ち受けているかも分からない。
竜は慎重に泉の様子を伺った。泉といっても竜にとっては口をつけて水を飲める程度の水溜りにすぎないが、その日のような柔らかな日差しが降り注ぐ日和には澄み切った泉の水がますます透明度を増して水底の湧水や川魚の水中での躍動まで全てを見通すことができる。感覚を研ぎ澄ましてもっと広い範囲に注意を向けてみても、気性の荒い春の風が時折葉のない広葉樹の木立を激しく揺さぶっては収まりを繰り返すだけ。まだ身体の熱を完全には奪われていない人の雌とその赤子以外に気配を感じない。泉に面した崖の上からせり出した一本の山桜が、淡い優しげな花を満開にしてこんもりと盛り上がり、その儚くも美しい姿を泉の水面に映し出す。静かだ。人の雌とその赤子が崖下の大きな岩の陰で倒れたその場所には、生々しくて濃厚な血の匂いが異常なほど充満しているというのに。
竜は、泉の反対側から身を乗り出して、恐る恐る人の雌に鼻先を肉薄させた。個々の認識など持ちようのない竜のことだからその雌が美人であることは何も関係ない。まずは鮮度を確かめたかった。それに腕の中に大事に抱えられた赤子の状態も知らなければ。竜が自らの顎の尖った部分を器用に使って雌の身体を仰向けにしてみると、それまで薄汚い布にくるまれて見えなかった赤子の身体が雌の腕からずり落ちて初めて陽の光を浴びたその子は、まだ臍の緒をつけたままで身体を洗われてもいない様子だった。その子は生殖器があるから、雄だ。彼を産み落とした雌は出産だけで力を使い果たして既に事切れていたが、驚いたことに弱弱しい存在でありながら彼は生きて呼吸をしていた。
竜はそれを知って、ますます興奮した。一つの命が次の命に魂を吹き込む瞬間はそうそう立ち会えるものではないし、全力で生きるために母体から底知れぬ英気を受け継いだ新生児というのは、死んでも旨い。生きているなら、なおさらだ。
最高のご馳走を目の前にして口腔から涎の分泌が止まらなくなった竜に慈悲の呼びかけなど届くはずもなく、生きるために人を食らってきた竜は躊躇することなく大口を開けて、雌もろとも彼を食らおうとした。おそらく竜の殺気と彼の持つ生存本能が咄嗟にそうさせたのだろう。彼は初めて泣いた。この世に生を受けたことを高らかに宣言するとともに何者も我を奪うな、という必死の主張。その日の荒ぶる風にも決して散らない彼の喧しいほどの泣き声を間近で聞いて、竜は思わず怯んだ。
崖の上から舞い降りた一片の桜の花びらがその怯みに割り込んできて血のぬめりが拭えない赤子の肌に張り付いたことから、竜は一気に食う気を失って身体を寝床に引っ込めた。興醒めだ。元より抵抗する赤子を無残に殺す趣味はないし、暇を持て余すこの時間を午睡で過ごしたいだけなんだから、泣き止まない赤子に構っても仕方あるまい。
竜は面倒がる眷属に荒々しく命じて浮遊の力をその身に借り受けると風のない上空まで一気に上昇して、いずこかへ飛び去った。竜には分かっていた。守る者を失った人間の赤子は他者が爪を振り下ろさなくともすぐに死ぬ。一思いに丸呑みにするのもいいがどうせ死ぬんだから弱い生き物の糧となって大地に還るのだ。
竜にとってその出来事は、食える肉を食い損ねた、それだけのことにすぎなかった。
食える肉を食い損ねた・・・

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Posted by blackcat at 00:53│Comments(0)メッセージ
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